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東京地方裁判所 昭和63年(ワ)8187号 判決 1993年4月27日

原告、亡若林満枝訴訟承継人

若林一枝

(以下「原告」という。)

右訴訟代理人弁護士

田代則春

被告

学校法人東京女子醫科大学

右代表者理事

吉岡博人

被告

喜多村孝一

横山正義

田原士朗

右被告ら訴訟代理人弁護士

松井宣

小川修

松井るり子

主文

一  被告学校法人東京女子醫科大学及び被告田原士朗は、原告に対し、連帯して、金四五二七万八七五二円及びこれに対する昭和六一年一〇月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告の被告学校法人東京女子醫科大学に対するその余の請求、被告喜多村孝一に対する請求、被告横山正義に対する請求及び被告田原士朗に対するその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、原告に生じた費用、被告東京女子醫科大学に生じた費用及び被告田原士朗に生じた費用の二分の一を被告東京女子醫科大学及び被告田原士朗の負担とし、その余の費用、被告喜多村孝一に生じた費用及び被告横山正義に生じた費用を原告の負担とする。

四  この判決は、第一項及び第三項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告らは、原告に対し、連帯して金八二六七万三七四〇円及びこれに対する昭和六一年一〇月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、いわゆる医療過誤訴訟であって、心臓カテーテル検査を受けた後に死亡した患者の遺族が、死亡の原因は右検査にあるとして、医師ら及びその使用者らに対し、債務不履行又は不法行為に基づき、慰謝料等の損害賠償請求をした事案である。

一争いのない事実等

1  原告は、亡若林敏一(大正一四年四月二三日生。以下「敏一」という。)とその妻亡若林満枝(以下「満枝」という。)の長女である(原告の昭和六三年九月一日付け訴訟手続受継の申立書添付の除籍謄本、改製原戸籍謄本及び戸籍謄本並びに弁論の全趣旨)。

2  被告学校法人東京女子醫科大学(以下「被告大学」という。)は、被告横山正義(以下「被告横山」という。)及び被告田原士朗(以下「被告田原」という。)の使用者であり、被告横山及び被告田原は、被告大学が開設している付属病院(以下「被告病院」という。)の胸部外科に所属する医師である。被告喜多村孝一は、昭和六一年当時、被告病院長であった。(争いがない)

3  敏一は、昭和六一年九月一七日、被告横山の勧めにより、心臓カテーテル検査を受けるために、被告病院に入院し、翌一八日、右検査を受けた。右検査後、敏一は、意識障害等の脳梗塞を疑わせる症状を呈し、その治療が行われたが、同年一〇月八日午後三時五三分、被告病院内で死亡した。(争いがない)

二原告の主張

1  被告横山及び被告田原の過失

被告横山は、敏一に対する心臓カテーテル検査(以下「本件検査」という。)を実施した責任者であり、被告田原は、被告横山の管理の下で本件検査を実施した者であるところ、被告横山及び被告田原には、敏一に対して本件検査を行うにつき、以下の過失がある。

(1) 本件検査の適応に関する判断を誤まった過失

被告横山及び被告田原は、敏一に対し、患者の生命及び身体に危険な検査である心臓カテーテル検査を行うほどの狭心症の確実な兆候が見られるかどうか、また、右兆候が見られたとしても心臓カテーテル検査を実施する必要があるかどうかを医学的方法によって確認し、客観的に狭心症に罹患していない場合はもとより、仮に罹患していたとしても軽度のものであった場合には、心臓カテーテル検査を差し控え、事故の発生を未然に防止すべき注意義務があった。

敏一は、本件検査の前には狭心症には罹患しておらず、仮に罹患していたとしても軽度なものであり、心臓カテーテル検査を行う医学的必要性は存在しなかった。本件検査は、被告横山及び被告田原が右注意義務を怠り、誤診した結果行われたものである。

(2) 脳梗塞の疑いがあるにもかかわらず本件検査を行った過失

脳梗塞の症状がある者に対する心臓カテーテル検査は、極めて危険である。

したがって、被告横山及び被告田原には、本件検査前に敏一に脳梗塞の症状があるかどうかを医学的方法によって確認し、これがあり、あるいはその疑念がある場合には、心臓カテーテル検査を差し控え、事故の発生を未然に防止すべき注意義務があった。

しかるに、被告横山及び被告田原は、昭和五八年七月八日、敏一に対し、脳梗塞の疑念を持ち、CT検査を行い、その後も敏一は、「頭が重い」「足が重い」「左足が動きにくい」「足がつる」等の症状を訴えていたことを確認しており、敏一には脳梗塞の疑いがあったにもかかわらず、右注意義務を怠り、本件検査を行った。

(3) 血圧の異常な上昇にもかかわらず検査を中止しなかった過失

敏一は、もともと高血圧であったところ、本件検査が三分の一程度進行した段階で、最高血圧(収縮期圧)が二〇〇ミリメートル水銀柱(以下、血圧の高さを示すときには、単位「ミリメートル水銀柱」を省略し、数値のみ記載する。)を超え、一時、二五〇にも達した。

このような場合、心臓カテーテル検査のためのストレスによる血圧の上昇の域を越えており、本件検査のために敏一の身体に危険が発生し、それによって右のような血圧の異常な上昇を来したものであることが考えられ、このまま本件検査を続行すれば、敏一の生命が危険であることが当然予想される。したがって、被告横山及び被告田原は、直ちに本件検査を中止するなどして、事故の発生を未然に防止すべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠り、本件検査を中止することなく最後まで続行した。

(4) 本件検査後の神経内科への往診依頼が遅延した過失

原告は、「本件検査後、敏一は意識不明であり、集中治療室(以下、略して「ICU」という。)に収容され重体の状態であったのだから、被告横山及び被告田原には、ICU収容後、直ちに、専門医である神経内科に対し往診を依頼して、敏一の症状を専門医によって確認し、適切な医学的治療を施して容体の悪化を防止し、その回復を図るべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠り、本件検査終了から二四時間を経過した後にようやく神経内科に往診を依頼したため、手遅れのため敏一の容体が一層悪化した。」と主張する。

しかしながら、後記認定のとおり、敏一は、神経内科医の往診後にICUに収容されているので、原告の右主張が、ICU収容後に直ちに神経内科に往診を依頼するなどして適切な治療を施すべき注意義務を怠った過失を主張する趣旨だとすれば、右事実経過との齟齬が生じ、何ら意味をなさない主張となる。そこで、本件事実経過に照らし、原告の右主張は、本件検査終了後、直ちに神経内科に往診を依頼するなどして適切な治療を施すべき注意義務を怠った過失を主張する趣旨であると善解する。

2  敏一の死亡との因果関係

被告横山及び被告田原は、1の(1)ないし(3)の過失により、敏一を重体の状態とし、同(4)の過失により、これを更に悪化させ、結局、(1)ないし(4)の過失が原因で、最終的には胃出血による播種性血管内凝固症(以下、略して「DIC」という。)及び多臓器不全により、敏一を死亡させるに至ったものである。

3  原告の損害

(1) 敏一の逸失利益

敏一は、死亡当時、旅館経営に従事し、一箇月平均金四〇万円の収入を得ていた。敏一は、死亡当時六一歳であったから、本件検査により死亡しなければ、平均余命18.91年の間、自己が経営する旅館の代表取締役の地位にあったものと考えられる。

敏一の生活費は収入の三割と考えられるところ、敏一には右収入のほかに一箇月金四〇万円の不動産賃貸収入があり、ここからも同額の生活費を支出するものとして、旅館経営による収入からの生活費控除率は一割五分と考えられる。

したがって、敏一の死亡による逸失利益の死亡時における現価を、新ホフマン方式により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると、金五三五一万三二八〇円となる。

(2) 敏一の慰謝料

敏一が本件検査により被った精神的苦痛を慰謝するための慰謝料としては、金一〇〇〇万円が相当である。

満枝及び原告は、敏一の妻及び子として、各二分の一の割合で、敏一の権利である前記(1)及び(2)の損害賠償請求権を相続した。

(3) 満枝の積極的損害

満枝は、敏一の治療費金一四〇万四七四〇円、付添い看護婦等への支払金五万円、入院期間中の雑費交通費等金二三万六二二〇円、葬式費用金五〇二万四七〇〇円、仏壇購入費金八六万四八〇〇円、墓地及び壇徒料金三五八万円、合計金一一一六万〇四六〇円の費用を支出した。

(4) 満枝及び原告の慰謝料

満枝及び原告が、敏一の不慮の死に遭遇し被った精神的苦痛を慰謝するための慰謝料としては、満枝については金五〇〇万円、原告については金三〇〇万円が相当である。

(5) 満枝は、本件訴訟提起後の昭和六三年七月二二日に死亡したが、満枝の相続人は、原告のみである(争いがない)。

以上より、敏一の死亡による原告の損害は、合計金八二六七万三七四〇円となる。

4  被告らの責任

(1) 債務不履行責任

敏一と被告らとの間には、昭和六一年九月一七日、被告らが心臓カテーテル検査を正常に実施、完了する事務処理を目的とする準委任契約が成立した。

しかるに、被告らは、前記1のとおり、右契約上の注意義務に違反したため、敏一を死亡に至らしめ、原告に前記3の損害を与えた。

よって、原告は、被告らに対し、債務不履行による損害賠償として、それぞれ金八二六七万三七四〇円及びこれに対する債務不履行の日の翌日である昭和六一年一〇月九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(2) 不法行為責任

被告横田及び被告田原は、本件検査を実施するに当たり、前記1の過失によって、敏一を死亡に至らしめ、原告に前記3の損害を与えた。

したがって、被告横山及び田原は、民法七〇九条の不法行為責任を負い、被告大学は、被告横山及び被告田原の使用者として民法七一五条一項の責任を負い、被告喜多村孝一は、被告大学に代わって事業を監督する者として、民法七一五条二項の責任を負う。

よって、原告は、被告らに対し、不法行為による損害賠償として、それぞれ金八二六七万三七四〇円及びこれに対する不法行為の日の翌日である昭和六一年一〇月九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

三被告らの主張

1  被告田原が本件検査を実施したことは認めるが、被告横山が本件検査実施の責任者であり、被告横山の管理の下で本件検査が実施されたことは、否認する。

被告病院長が、被告大学に代わって事業を監督する者であるとの主張は、争う。

2  被告横山及び被告田原の無過失

(1) 心臓カテーテル検査の適応

狭心症が心筋梗塞になった場合、三人中二人は、一週間以内に死亡すると言われており、ほぼ無症状の人でも、冠状動脈の狭窄が著明で突然死が心配される場合もある。

敏一には、胸痛のほか、高血圧、肥満、長期の飲酒歴、喫煙歴、高脂血症、軽度腎障害等の冠状動脈狭窄を疑わせる所見がそろっており、冠状動脈を精査し、手術なり薬剤投与なりを開始することが治療上不可欠であると考えられた。そこで、検査の結果により必要であれば手術を行うことを予定して、本件検査を実施したものである。

たしかに、本件検査の結果、冠状動脈狭窄は少なかったが、この事実は、その後の敏一の治療方針や生活指針を考える上で、大きな参考資料となるはずであった。

(2) 本件検査前の脳梗塞の兆候の不存在

敏一には、昭和五八年五月ころより、左手親指のしびれ、知覚異常が認められたが、脳梗塞では通常手足の運動麻痺が生ずるところ、運動機能には異常はなく、脳梗塞の症状ではないと考えられたが、念のため昭和五八年七月八日に脳のCT検査を実施し、異常のないことを確認した。

そして、右CT検査後、本件検査の日までの外来受診中、敏一には改めて脳梗塞を疑うべき症状は認められていない。敏一の症状は、一過性の知覚異常が主であり、運動麻痺はなく、痺れが生ずる部位も左手の親指や人差指というように片側性単一肢の障害であり、末梢神経又は神経根障害と考えられる。また、敏一の症状は、短期間に消失したり再発したりする。これに対し、脳梗塞等の中枢性障害では、腕全体、足全体の運動麻痺を生じることが多く、一週間で消失することはほとんどない。

したがって、本件検査前、敏一には、脳梗塞の兆候は存在しなかった。

(3) 本件検査続行の妥当性

心臓カテーテル検査では、患者の最高血圧が、一過性に短時間、二三〇ないし二五〇になることは、臨床上起こり得ることであり、血圧上昇時には、必要に応じて降圧剤を投与し、経過を観察しながら検査を継続する。

心臓カテーテル検査中の二〇〇以上の最高血圧の上昇が持つ意味は、患者により個人差があると考えられる。敏一の最高血圧は、通常の状態でも一七〇ないし一九〇程度であることが多く、検査時のストレスにより短時間二〇〇以上の最高血圧となることは、特別に異常な反応とは言えない。敏一の外来初診時の血圧は、最高血圧二〇〇、最低血圧九二であったので、少し緊張すれば最高血圧が二〇〇以上になることは十分予想されることであった。

被告田原は、本件検査時には、血圧上昇を無視したのではなく、抗狭心症薬ニトログリセリンや降圧剤アダラートを投与し、敏一の状態を十分観察し、把握しながら、検査を施行しており、医師としての注意義務は尽くしている。本件検査経過の中で、検査の中止を決定づける要因はなく、最後まで検査を行ったことは妥当なことであった。

(4) 本件検査後の対応の妥当性

本件検査を実施した後、敏一の意識レベルが低下し、四肢硬直が起きたため、脳梗塞、脳幹部循環障害等の可能性を考え、治療を開始するとともに、神経内科等に相談しながら、最良の治療を行った。

3  敏一の死因

敏一は、本件検査後、意識障害等の脳梗塞を疑わせる症状を呈し、その治療が行われたが、意識障害は回復し、可逆的なものであったこと、脳のCT検査で異常がなかったこと、死後の剖検においても大脳及び小脳には小壊死巣しか認められなかったことなどから、大きな脳梗塞の存在は確実に否定することができる。したがって、本件検査後の敏一の状態は、一過性の脳底動脈領域の循環障害と考えられる。

敏一の死因は、右の一過性の脳底動脈領域の循環障害によるものではなく、意識障害が回復した後の消化管出血によるDIC及び多臓器不全に伴った心不全である。

そして、消化管出血の原因は、ステロイド剤の使用、ストレス等が関与して起こったものと考えられる。意識障害患者で長期臥床の状態では、常に消化管出血の注意は必要であり、敏一についても、充分量の抗潰瘍剤タガメットを継続して投与しており、できるだけの予防策は行った。

したがって、敏一の本件検査後の意識障害は軽快したものであり、死因とは直接の関係はない。

四争点

1  敏一に心臓カテーテル検査の適応があったか否か。

2  本件検査前、敏一に、脳梗塞を疑わせる症状があったか否か。

3  本件検査中の血圧の上昇に伴い、本件検査を中止すべきであったか否か。

4  本件検査後の神経内科に対する往診依頼は遅かったか否か。

5  敏一の死因

6  損害の発生の有無及びその額

第三争点に対する判断

一敏一の診療経過

<書証番号略>、証人内山真一郎(以下「内山証人」という。)、証人阿部博幸(以下「阿部証人」という。)、被告横山本人、被告田原本人及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  本件検査に至るまでの外来での診療経過

(1) 敏一は、昭和五〇年ころから、高血圧に対する投薬を近医から受けていたが、昭和五七年一月一二日の朝、胸がもやもやして少し苦しいと感じ、同月一四日には、朝から昼近くまで胸が少し苦しいと感じ、同月一八日ころから、胸が重苦しく圧迫感があり、その後、軽く痛むようになったため、近医から狭心症との診断でニトログリセリンを投薬された。

そこで、敏一は、同月二六日、胸が少し苦しかったため、狭心症を心配し、被告病院胸部外科外来を受診し、訴外堀江医師の診断を受けた。

敏一は、初診時、昭和五〇年ころから高血圧を指摘されていること、肥満と大量、長期の飲酒歴があり、喫煙は一週間前にやめたが、それまでは一日あたり二〇本の煙草を吸っていたこと、昭和五一年一月に二〜三箇月間薬を飲まないでいたら寒け、下痢、嘔吐があり、血圧は二三〇を呈したこと、同年七月、ジョギング中に気分が悪くなり、血圧が一九〇を呈し、平衡感覚もなくなったことがあることなどを訴えた。

初診時の血圧は、最高血圧二〇〇、最低血圧九二(以下、最高血圧と最低血圧を同時に示す場合には、「最高血圧/最低血圧」として、数値のみを表示する。)であり、心電図検査の結果は正常であった、

(2) その後、昭和五七年二月二日からは、被告横山が敏一を担当するようになり、昭和六一年九月一七日に入院するまでの間、敏一は、約二週間ごとに被告横山の診察を外来で受けていた。

敏一については、昭和五七年二月二日の心電図検査で左室肥大が認められ、また、胸痛の訴えがあったため、狭心症が疑われた。血圧は、一六〇/一〇五であった。

同年三月には、胸痛のほか胆石症が認められ、中性脂肪も高値を示した。被告横山は、敏一が初診から一箇月以上経過しても胸痛が治まらないので、精査したいと考え、敏一に心臓カテーテル検査を勧め、敏一は、いったん右検査を受けるために入院申込みをしたものの、都合により延期された。

同年八月には、血圧が一八〇/一〇〇を示し、同年九月、一〇月にも胸痛の訴えがあった。

(3) 敏一は、昭和五八年一月ころから、右足や左足のくるぶしなどが攣ると訴えるようになり、同年五月二五日には、左手親指の痺れを訴え、同年六月八日には、左手親指の痺れ、麻痺があるが、運動は正常で、感覚のみが麻痺していることを訴えたため、被告横山は、脳梗塞の可能性を疑い、脳のCT検査を予約した。

同年七月八日、脳のCT検査が実施されたが、その結果、脳に中等度の萎縮が認められるものの、年齢相応なもので、異常は認められない旨診断された。

(4) 敏一については、同年九月の心電図検査の結果、左軸偏位が認められ、同年一〇月の超音波検査の結果、胆石が確認された。また、昭和五九年三月には、血清尿素窒素値及び血清クレアチニン値が高く、軽度の腎障害が認められた。

また、敏一は、昭和六〇年九月には、血圧が一九〇/一〇〇を示し、心電図検査により左軸偏位が認められ、再び、左手の親指や人差指が痺れると訴えた。

敏一は、その後もしばしば、手の痺れ、足の攣れ、頭痛、肩凝り等を訴え、昭和六一年四月には、正座すると左足が攣る、寝ていても足が攣ることがある。足のみでなく腿も攣るなどと訴え、同年六月には、右人差指が動かないと訴え、その後も足の筋肉が攣るなどと訴えていた。

(5) 敏一は、同年七月、昭和六一年度節目年齢健康診断を受け、肥満(肥満度二六%)、左軸偏位、動脈硬化症及び心肥大を指摘され、精密検査が必要である旨判定された。

被告横山は、敏一には冠状動脈狭窄を疑わせる所見がそろっていること、心電図の所見も次第に悪くなるような気配が見られたことから、冠状動脈造影検査を行って、冠状動脈の狭窄の有無、程度を明らかにし、その結果を今後の治療の指針にしたいと判断し、同年七月三〇日、敏一に心臓カテーテル検査を勧めた。

敏一は、同年九月一七日、心臓カテーテル検査を受けるために被告病院に入院し、家族と共に訴外村杉医師から心臓カテーテル検査についての説明を受け、検査に対する承諾書を作成した。

(6) 初診時以降、外来で診察を受けていた間の敏一の血圧は、変動はあるものの、最高血圧は一六〇ないし一七〇を中心に推移し、最低血圧は九〇前後を中心に推移していた。

2  心臓カテーテル検査

心臓カテーテル検査は、診断を目的とした、血行動態検査と造影検査の組み合わせである。その具体的方法は、カテーテルという細い管を血管内に挿入し、血管経由で心臓に進め、血管及び心臓の心房、心室等において血圧や酸素の濃度等を測定し、さらにカテーテルからこれらの場所に造影剤を注入し、造影された像をレントゲン撮影して心臓内の形態を観察するというものである。

心筋の各細胞に酸素及び栄養素を与える血液を供給するのが冠状動脈である。この冠状動脈に狭窄が生じたために、狭窄部分から先に血液が十分に送られなくなるのが狭心症であり、冠状動脈が閉塞状態となり、末梢の心筋が著しい血液不足となるために心筋が壊死してしまうのが心筋梗塞である。心臓カテーテル検査によって、この冠状動脈に造影剤を注入して撮影すれば、冠状動脈の狭窄の有無、部位、程度が分かるので、心臓外科手術の適応性やその時期、手術による改善の程度を予測する等、個々の症例について決定的な情報を得ることができる。

心臓カテーテル検査手技としては、主に右腕肘関節部の動脈又は静脈を露出切開してカテーテルを直接挿入して検査を行う方法と、主に右足大腿部から経皮的に動脈と静脈にカテーテルを挿入して検査を行う方法とがある。本件検査では前者の手技が用いられた。

3  本件検査実施の経過

本件検査は、敏一が被告病院に入院した日の翌日である昭和六一年九月一八日に実施された。その経過は、以下のとおりである。

なお、本件検査に際し、術者としてカテーテル検査室に入ったのは、被告田原及び訴外横田医師であり、被告田原が本件検査を実施し、訴外横田医師がこれを介助した。被告横山は、本件検査に立ち会っていなかった。

(1) カテーテル検査室入室時の敏一の状態

敏一は、午後一二時三〇分、心臓カテーテル検査中の緊張を和らげるために、精神安定剤アタラックスP五〇ミリグラムを経口投与され、その後、カテーテル検査室に入室した。

入室時の敏一の血圧は、一五八/九〇であり、脈拍は一分当たり七一回であった。

(2) 右心系カテーテル検査

検査に先立ち、敏一の血液の凝固を抑制するために抗凝固剤ヘパリンが投与され、午後一時三〇分、カテーテル検査が開始された。この時の敏一の血圧は、一五四/九六であった。

被告田原は、まず、敏一の右腕肘関節を局所麻酔した上で、皮膚を横切開し、血管を露出させ、静脈に右心カテーテルを挿入して、右心系カテーテル検査を開始した。

午後一時四八分、カテーテルが右肺動脈に楔入され、右肺動脈楔入圧、右肺動脈圧を測定した。

午後一時五一分から五二分まで、心拍出量を四回測定し、五四分に肺動脈にあったカテーテルが右心室に引き抜かれ、右心室圧を測定した。五五分に右心室から右心房にカテーテルが引き抜かれ、右心房圧を測定し、五七分に大静脈圧を測定して右心系カテーテル検査を終了した。

右心系カテーテル検査を行っている間、敏一からは特に訴えもなく、異常な状態は見られなかった。

(3) 左心系カテーテル検査

右心系カテーテル検査終了後、右腕肘関節から露出された動脈から左心カテーテルが挿入され、上行大動脈までカテーテルが進められた。

午後二時七分、上行大動脈圧測定が開始された。開始時の血圧は、一六九/九一であった。

午後二時一三分、左心室にカテーテルが挿入され、左心室圧が測定された。左心室圧測定開始時の最高血圧は、一五六であった。

被告田原は、左心室圧を測定した後、カテーテルを再び大動脈の方に抜いたが、抜いてから数十秒して敏一の最高血圧が二〇〇を越えて上昇し、午後二時二一分には、二三二/一一七となった。このとき、被告田原が、上腕部にマンシェットを巻いて血圧計で測定する間接法で敏一の血圧を確認したところ、最高血圧は一九〇以上を示し、敏一は、胸の苦しさを訴え、顔色口唇色の不良が認められた。

そこで、被告田原は、敏一に対し、抗狭心症薬であり血圧を下げる作用があるニトログリセリン一錠を舌下させた。

(4) 左冠状動脈造影

午後二時二七分、ニトログリセリン舌下の結果、敏一の血圧は、一八一/一一一に低下してきたので、被告田原は、検査を再開し、午後二時二八分から三〇分まで、左冠状動脈造影を二回施行した。この間、敏一の最高血圧は、一三〇くらいになることもあったが、大体一五〇ないし一七〇で推移した。

左冠状動脈造影後、約5.1秒間、心停止が起こり、血圧も低下した。冠状動脈造影を行うと、一時的に心臓の虚血状態が生ずるために、心臓の動きが抑制されて、次の脈が出るまでに時間がかかることがある。このような場合、咳をすると、胸腔内圧が上がり、血管内の造影剤が早く出て行き、虚血状態を解消する作用があると言われているので、造影剤を注入した後は、直ぐに患者に咳をさせることが通常行われる。被告田原が、敏一に咳をさせたところ、脈は戻ったが、心拍数が一分間当たり四五回程度まで落ち、敏一の意識が「ボーとしている」状態が見られた。そこで、被告田原が敏一に硫酸アトロピン二分の一アンプルを静注したところ、心拍数は回復した。

午後二時三一分、敏一の血圧は、一七一/一〇二であった。

(5) 左心室造影

午後二時三六分から三八分まで、左心室造影が二回施行された。

午後二時三八分、左心室造影後、左心室圧を測定したところ、最高血圧は一七五であった。

(6) 右冠状動脈造影

左心室造影後、被告田原が、左心室にあったカテーテルを再び大動脈まで引き戻したところ、敏一の血圧が再び上昇した。その状況は、以下のとおりであった。

午後二時四〇分 二三七/一一四

四二分 二四八/一二四

四四分 二五三/一二七

四五分 二五三/一三〇

四六分 二五三/一二八

四七分 二五〇/一三〇

四八分 二四三/一三二

最高血圧が二五〇以上に上昇した段階で、敏一から胸が苦しいなどの訴えは特になかった。敏一の意識は、被告田原医師の呼びかけには答えていたが、少し眠っているような状態であった。

被告田原は、最高血圧が二五〇を超えたところで、敏一に降圧剤アダラート一錠を舌下させ、様子をみたところ、午後二時五〇分には、血圧が二三四/一二三に低下し、五六分には、最高血圧が二二〇程度まで低下したので、右冠状動脈造影を開始した。

第一回目の右冠状動脈造影は、午後二時五六分から五八分まで行われたが、その間、敏一の血圧は、一六二/一五八、二一四/一一一、一六九/七五、二一六/一一〇、二二四/一一四と推移した。

第二回目の右冠状動脈造影は、午後二時五八分から五九分まで行われたが、その間、敏一の血圧は、一三八/一三六、一六八/七〇、一七五/七六、一六六/八〇、一八三/一〇五と推移した。

二回の右冠状動脈造影を終えて、本件検査は終了したが、右冠状動脈造影後、約1.8秒間の心停止が起こった。

(7) 検査終了

午後三時、被告田原が敏一の右腕肘関節の血管修復の準備をしている間に、敏一の血圧は、再び二二六/一一六まで上昇し、午後三時一分には、さらに二三〇/一一七まで上昇した。

そこで、被告田原は、敏一にニトログリセリン四錠を追加投与して血圧をコントロールしながら、血管修復を開始し、午後三時四分にカテーテルを血管から抜去した。カテーテル抜去時の血圧は、二二四/一一七であった。

カテーテル抜去後は、血管中のカテーテルによって血圧を直接測定することができないので、上腕部にマンシェットを巻いて血圧計で血圧を測定することになる。敏一の最高血圧は、血管修復及び皮膚縫合が終了した時点では、一七〇程度に下降し、午後三時三〇分に敏一がカテーテル検査室を退室する直前の血圧は一五〇/一〇〇、脈拍は一分間当たり七七回であった。

検査が終了した段階で、敏一の意識状態は、呼びかけに対して返答はするものの、すぐに再び眠ってしまうような状態であった。

(8) 検査結果

本件検査の結果、敏一については、右冠状動脈に二五ないし五〇パーセントの狭窄が認められるのみで、左冠状動脈には狭窄が認められないことが確認された。

4  本件検査後の診療経過

(1) 帰室後の敏一の状態

敏一は、本件検査後、午後三時四〇分に、カテーテル検査室から病室に戻った。このときの血圧は、一四四/一〇〇であった。

帰室時の敏一の意識状態は、うとうとしていて声かけにも今一つ返答が得られないという傾眠状態が続いており、筋緊張が認められた。

午後七時、敏一の意識状態は、呼名反応はあり、うなずくもののすぐに閉眼してしまう状態であり、心臓カテーテル検査終了から三時間半を経過した時点でなお傾眠状態が続いていることから、脳の浮腫による意識障害が生じた可能性が考えられたため、脳圧を低下させるために、グリセオールの投与が開始された。また、午後九時からは、ステロイド剤(副腎皮質ホルモン)ソルメドロールの投与が開始された。

その後、翌一九日の朝まで、敏一は、左上肢の筋肉が緊張して左手を曲げたまま伸展しない状態が続き、意識状態は、呼びかけに開眼したりしなかったりの傾眠状態が続いた。

(2) 九月一九日の敏一の状態

午前八時、敏一の意識が低下した状態が一晩続いたこと、本件検査中に血圧が上昇したことから、脳出血の脳障害が生じた可能性が考えられたため、その有無を確認するために、頭部CT検査が実施された。

頭部CT検査の結果、脳出血はないことが確認されたが、敏一は、このころから呼名反応がなくなるなど意識レベルの低下が著明になり、また、上肢、特に左上肢の筋緊張が強くなり、左方への共働偏視、左バビンスキー兆候が認められたことから、脳梗塞が疑われた。

そこで、敏一に対し、新たに酸素吸入を開始し、大部屋から個室に移動させて、より濃厚な管理ができるようにした。

午後三時、神経内科の往診があり、その結果、脳塞栓が最も疑われるということであり、グリセオールとステロイド剤リンデロンの投与が指示された。

午後八時五〇分、敏一に、頸部の痙攣が発生し、翌二〇日の朝まで頸部の痙攣が頻発した。

(3) ICUでの経過

敏一は、二〇日の朝から、全身性の痙攣が頻発するようになり、さらに、意識状態が非常に悪化し、意識レベル一〇〇ないし三〇〇の昏睡に近い状態となったため、ICUに収容され、集中管理が開始された。

意識レベルは、三・三・九度方式で示される。どんな刺激にも反応をしない状態を意識レベル三〇〇で表し、非常に強い刺激には反応する状態を意識レベル一〇〇・二〇〇で表し、刺激に反応する状態を意識レベル一〇・二〇・三〇で表し、呼びかけに答えられる状態を意識レベル一・二・三で表す。

ICU収容後、敏一に対して、気管切開が施行され、人口呼吸器による呼吸管理が開始された。二〇日は、敏一に全身性の痙攣が頻発し、抗痙攣剤ラボナールの投与が必要とされた。

二一、二二日は、二〇〇ないし三〇〇の意識レベルが続き、痙攣も認められたが、その回数、持続時間は減少傾向にあった。

二三日は、二〇〇程度の意識レベルで経過し、痙攣はほとんど出現しなくなった。

二四日は、意識レベルがやや改善し、抗痙攣剤ラボナールの投与は中止された。

その後、二五日から二七日にかけて、意識レベルが徐々に改善され、二七日にはほぼ意識が清明な状態にまで回復した。三〇日には、敏一は、人口呼吸器より離脱した。

しかし、一方で、二七日から三〇日にかけて、腎機能は悪化傾向を示していた。

一〇月一日、脳波検査の結果、異常が認められ、中等度の全脳機能低下が考えられると診断された。同日、敏一は、意識レベルは意思伝達可能となったものの、依然として四肢は麻痺していたため、胸部外科からリハビリテーション部に対し、敏一のリハビリテーションが依頼された。

一〇月三日、午前九時三〇分、人工呼吸が不必要となり、意識状態も改善されたため、敏一は、ICUから一般病室に戻った。

(4) 消化管出血

敏一は、一般病室に戻った一〇月三日の午後一時ころから、顔面が紅潮し、意識レベルの低下が認められた。その後、夕方から非常に多量の消化管出血があり、意識レベル三〇〇まで意識状態が悪化したため、午後五時一五分、再度ICUに収容された。

敏一は、一時、最大血圧が五〇程度にまで低下したが、輸血等の処置により、一二〇程度まで回復した。しかし、消化管出血は依然として持続していた。

一〇月四日、胸部外科は、外科に往診を依頼し、胃の内視鏡検査が行われたが、胃からの出血点がはっきりせず、散在性出血であり、急性胃粘膜病変と診断された。

消化管出血の後、敏一には、肝機能、腎機能の低下、慢性膵炎の急性増悪、腎不全等が出現するとともに消化管出血も継続し、血小板数の減少、フィビリノーゲンの著明な減少、アンチトロンピンⅢの減少等により、DICと診断された。そして、全身状態の悪化とともに意識レベルも急速に低下し、意識レベル三〇〇の昏睡状態にまで達し、一〇月八日、午後三時五三分、心不全で死亡するまで意識は回復しなかった。

敏一の死亡診断書には、直接死因は心不全であり、その原因はDICであり、その原因は消化管出血であると記載され、その他の身体状況として脳梗塞が挙げられていた。

5  敏一の解剖結果

(1) 敏一の遺体は、一〇月八日午後四時五四分、被告病院において、訴外山田幸男医師執刀の下に、解剖に付された。

その結果によると、敏一の大動脈は粥状硬化が著明であり、また、左心室の著明な求心性肥大と右心房の拡大が認められるものの、冠状動脈は右冠状動脈末端部にて二五ないし五〇パーセントの狭窄が認められるのみであった。そのほか、肝臓の脂肪化と鬱血、慢性膵炎の急性増悪、腎臓については細動脈硬化及び梗塞、胃潰瘍などが認められた。

(2) 訴外山田幸男医師は、さらに敏一の脳をホルマリンで固定し、後日、その解剖を行った。

その結果によると、脳底動脈の硬化が認められるほか、大脳及び小脳に散在する少壊死巣と少出血巣が認められた。

二争点1について

1  前記認定のとおり、敏一について心臓カテーテル検査の適応の有無を判断したのは、外来で敏一を診察していた被告横山であり、被告田原は、検査の適応の判断については何ら関与していなかった。したがって、被告田原に心臓カテーテル検査の適応の判断を誤った過失があるとする原告の主張は、その前提を欠き、失当である。

そこで、被告横山に、敏一について心臓カテーテル検査の適応の判断を誤った過失があるか否か、敏一の心臓カテーテル検査の適応の有無について、検討する。

2  心臓カテーテル検査の適応

心臓カテーテル検査の適応の幅は広いとされているが、代表的な適応項目は以下のとおりである。(<書証番号略>、阿部証人)

(1) 冠状動脈疾患との確定診断がされている患者

既に心筋梗塞や狭心症などの虚血性心疾患との診断がされている症例に対して、重症度や予後の判定及び治療方針の決定を目的として行われる場合である。

(2) 冠状動脈疾患が疑われるが、確定的とはいえない場合

例えば、胸痛などの自覚症状はあるが、原因疾患が分からない患者で、冠状動脈に狭窄があるのか否か不明な場合に、確定診断のために冠状動脈造影が行われる。

3  本件検査前の敏一の症状

(1) 狭心症の症状は、胸痛又は胸の圧迫感であるが(<書証番号略>、被告横山本人、阿部証人)、前記認定のとおり、敏一は被告病院胸部外科外来の初診時から、胸痛や胸の圧迫感を訴え、近医から狭心症との診断でニトログリセリンを投薬されていた。

(2) 狭心症、心筋梗塞などの虚血性心疾患を生ずる危険因子としては、高血圧(世界保健機構の基準では、年齢に関係なく、血圧の正常値は、最高血圧が一六〇以下、最低血圧が九五以下とされている。したがって、最高血圧が一六〇以上、最低血圧が九五以上を高血圧症という。)、肥満、喫煙、ストレス、高脂血症、糖尿病、高尿酸血症などが挙げられる(<書証番号略>、被告横山本人)。

前記認定のとおり、本件検査前、敏一には、高血圧、肥満、長期の喫煙歴、軽度の腎障害など、右危険因子のうちの幾つかが明らかに認められ、さらに、心電図検査の結果、左室肥大及び左軸偏位が認められていた。

4  以上によれば、本件検査前、敏一は、狭心症が疑われる状態にあったと判断することができ(<書証番号略>、阿部証人、被告横山本人)、2の(2)の適応に該当する。そして、前記認定のとおり、被告横山は、冠状動脈の狭窄の有無、程度を診断し、狭心症かどうかを確定診断するために心臓カテーテル検査を敏一に勧めたことが認められるのであって、その適応の判断には誤りはなかったと認められる。

三争点2について

1  前記認定のとおり、敏一に対する本件検査の実施を決定したのは、被告横山であり、被告田原は、被告横山の右決定を受けて本件検査を実施しただけである。したがって、被告田原は、敏一に脳梗塞の疑いが認められたことから、本件検査を差し控えるべき注意義務があったのに、これを怠ったとする原告の主張は、その前提を欠き、失当である。

そこで、被告横山について右過失があるか否か、本件検査前に敏一に脳梗塞を疑わせるような症状があったか否かについて、検討する。

2  一般に、高度の脳あるいは末梢の血管病変がある患者は、心臓カテーテル検査によって、死亡などの重篤な合併症が起こる率が高いことが指摘されており(<書証番号略>)、神経内科医である内山証人も、急性期の脳梗塞患者、発症直後の重篤な脳卒中患者には、冠状動脈造影を行ってはならない旨証言している。

以上によれば、急性期の脳梗塞患者に対する心臓カテーテル検査の実施は、極めて危険であることが推認され、医師は、急性期の脳梗塞患者に対する心臓カテーテル検査の適応の判断を慎重に行うべき注意義務を負っているといえる。

3  原告は、本件検査前に、敏一がしばしば左手指の痺れ、足の攣れ、頭痛、肩凝り等を訴えていたことを、脳梗塞の症状であると主張する。

しかし、右手足の麻痺、左半身全体の痺れ又は感覚鈍麻、言語障害等の症状が認められた場合には、脳自体に異常があることを強く疑わせる症状であって、その一つの原因として脳梗塞の可能性も考えられるが、本件検査前に敏一に認められた右症状は、末梢神経の疾患、自律神経失調、心因性の要因その他さまざまな病態から起こり得る症状であって、脳障害に特異的な症状とは認められない(内山証人)。

また、前記認定のとおり、被告横山は、昭和五八年七月八日、敏一の頭部CT検査を行ったが、その結果は、年齢相応の脳の萎縮が認められるのみで、そのほか脳腫瘍、脳出血、脳梗塞などの異常は認められなかった。そして、右CT検査前後で、敏一の右症状に大きな変化は認められない。

4  以上によれば、本件検査前に、敏一が急性期の脳梗塞が疑われるような症状を示していたとは認められないから、被告横田に本件検査を差し控えるべき注意義務があったとは認められない。

四争点3について

1  前記認定のとおり、本件検査を実施したのは、被告田原であって、被告横山は、本件検査の実施には関与していない。したがって、被告横山に本件検査施行上の過失があるとする原告の主張は、その前提を欠き、失当である。

そこで、被告田原について、本件検査中に敏一の血圧上昇に伴い、検査を中止すべき注意義務違反があったか否かについて、検討する。

2 本件検査中の敏一の血圧の全体的傾向

(1)  前記認定の本件検査中の敏一の血圧の推移を見ると、午後二時二一分に血圧が二三二/一一七に上昇した以後は、ニトログリセリン一錠を舌下した後と、左冠状動脈造影及び左心室造影が行われた間は、血圧が低下しているが、造影終了後、血圧が再び二三〇以上に上昇していることが認められる。そして、左心室造影後、午後二時四〇分から五〇分までの一〇分間は、最高血圧が二三〇を超え、最低血圧が一一〇を超える状態が続き、降圧剤アダラート一錠を舌下したにもかかわらず、五六分に最高血圧が二二〇に低下したのみで、十分な血圧降下が得られていないことが認められる。そして、その後に行われた右冠状動脈造影の間は、血圧が低下したものの、造影後は、再び最高血圧が二二〇以上に上昇したことが認められる。

(2)  造影剤には、心筋機能低下作用や血管拡張作用(全身動静脈の拡張)があるため、造影剤注入時には、副作用として低血圧が起こることが指摘されている(<書証番号略>、阿部証人)。

(3)  右認定事実を前提に、敏一の本件検査中の血圧の推移の傾向を検討すると、敏一の血圧は、午後二時二一分の血圧上昇以降は、造影検査時に、造影剤の右副作用によって、一時的に低下を示す以外は、最高血圧が二二〇を超え、最低血圧も一一〇を超える非常に血圧の高い状態が継続していたことが認められる。

3 血圧上昇の程度

被告らは、敏一はもともと高血圧症であったため、検査時のストレスにより、短時間、最高血圧が二〇〇以上となることは、異常な反応ではないと主張し、鈴木紳医師作成の鑑定書(<書証番号略>)にも、同旨の鑑定意見が述べられている。

しかしながら、前記認定のとおり、本件検査前、敏一の血圧は、最高血圧は一六〇ないし一七〇を中心に推移し、最低血圧は九〇前後を中心に推移していたのであり、これは、高血圧症ではあるが、やや血圧が高いという状態であって、非常に血圧が高いという状態ではなかった(<書証番号略>、被告横山本人)。また、本件検査前には、検査中のストレスによる血圧上昇を抑制するために、敏一に精神安定剤アタラックスPが投与されている。さらに、ニトログリセリン一錠を舌下させた後にも再び最高血圧が二五〇まで上昇しており、しかも、降圧剤アダラートを投与しても最高血圧が二二〇程度までしか低下せず、十分な血圧降下が得られていないのである。

右認定事実を総合すれば、本件検査中の敏一の血圧の急激な上昇及び非常に高い血圧が継続する状態は、検査によるストレスのみによっては説明することができない血圧の異常な上昇であったと言わざるをえない。

4 血圧上昇の原因

そこで、次に、本件検査中、敏一の異常な血圧の上昇をもたらした原因について検討する。

(1)  敏一の検査中及び検査後の症状

①  意識障害

前記認定のとおり、敏一は、本件検査中、左冠状動脈造影後に5.1秒間の心停止が起きたときに、意識が「ボーとしている」状態が認められたが、これは、敏一に何らかの意識障害が生じたことをうかがわせる所見である(阿部証人)。さらに、最高血圧が二五〇以上に上昇した段階では、敏一の意識は、呼びかけには答えるが、少し眠っているような状態であった(被告田原本人)。

②  神経学的所見

本件検査後、敏一に見られた特記すべき神経学的所見は、前記意識障害の出現、左方への共働偏視、左下肢のバビンスキー兆候である。このような所見がある場合、右側の大脳半球に何らかの病変、障害が生じたものと推測される。そして、その原因としては、脳腫瘍、脳梗塞、脳出血、脳の外傷などが考えられる(内山証人)。

③  痙攣発作

脳出血、脳塞栓症が発症したときには、痙攣発作が起こることがあるところ(内山証人)、前記認定のとおり、本件検査の翌々日の九月二〇日の朝から、敏一には全身痙攣発作が起こるようになった。

④  頭部CT検査所見

脳出血の場合には、発症直後からCT画像に高吸収域として現れるはずである(内山証人、阿部証人)。しかしながら、前記認定のとおり、本件検査の翌日の頭部CT検査において、敏一の脳には脳出血は存在しないことが確認されている。

右大脳半球の前頭葉に脳梗塞が発症した場合には、左バビンスキー兆候が起こり得るが、右CT検査において、該当する場所には脳梗塞の所見が認められない。しかしながら、脳梗塞の場合は、通常、発症から四、五日経過しないと、明らかな低吸収域としてCT画像に現れてこない。したがって、右CT検査の前日に脳梗塞が発症した場合には、CT画像上には、異常陰影としてはいまだ出現しないはずであって(内山証人、阿部証人)、本件検査中に脳梗塞が発症したとしても、右CT検査所見と矛盾はしない。

⑤  意識状態の回復

前記認定のとおり、敏一は、ICU収容後、九月二七日に至り、いったん意識レベルが清明な状態にまで回復している。直接の死因となるような大きな脳梗塞が発症した場合には、意識状態が回復することは難しいが、意識状態が回復したことから直ちに脳梗塞がないとは言えない(被告横山本人)。したがって、脳梗塞が小さなものであれば、敏一の意識状態の回復とは矛盾しない。

⑥  解剖結果

前記認定のとおり、敏一の脳を解剖した結果、大脳及び小脳に散在する少壊死巣が認められている。壊死は、恐らく脳梗塞の結果であり、右所見は、小さな脳梗塞が散在していることが認められたということである(内山証人)。

右各所見を総合考慮すると、本件検査後、敏一には小さな脳梗塞が多数発症していたことが認められる。

(2)  心臓カテーテル検査によって脳梗塞を生ずる機序

脳梗塞の原因には、脳血栓症と脳塞栓症とがある。脳血栓症とは、動脈硬化を起こした脳の血管に血栓が形成されることによって、脳の血管が閉塞されて脳梗塞を起こすものであり、脳塞栓症とは、例えば、心臓の血管に形成された血栓が、大動脈、頸動脈を通じて、脳の動脈に流れて行き、脳の血管を閉塞させて、脳梗塞を起こすものである(内山証人)。

本件検査後、敏一を往診した神経内科医は、敏一に脳梗塞の既往歴が認められないことから、脳塞栓症が最も疑われると診断している(<書証番号略>)。

<書証番号略>、内山証人及び阿部証人によれば、心臓カテーテル検査中に脳塞栓症を生ずる機序としては、

①  カテーテルによって、動脈硬化を起こした血管に形成された壁在血栓が剥離されて飛ばされ、脳の血管に流された結果、脳梗塞を生ずる

②  カテーテルの周囲に形成された血栓又はカテーテルの中に形成された血栓が飛ばされ、脳の血管に流された結果、脳梗塞を生ずる

③  カテーテルによって、粥状硬化、動脈硬化をおこした血管の粥腫(アテローム)が剥離されて飛ばされ、脳の血管に流された結果、脳梗塞を生ずる

の三つが想定される。

本件検査開始前には、カテーテルの周囲及び内部の血栓の形成を防止するために、抗血液凝固剤ヘパリンが敏一に投与されているが、ヘパリンを投与していても血栓が形成される場合もあり得る(被告田原本人)。また、前記認定のとおり、敏一の遺体の解剖の結果、大動脈の著明な粥状硬化が認められている。したがって、本件では、①ないし③のいずれの可能性も認められる。

(3)  血圧上昇の原因

右認定事実に加えて、争点2で認定したとおり、本件検査前に敏一が脳梗塞に罹患していたとは認められないことを併せて考慮すると、本件検査後に敏一の脳に認められた散在する小さな脳梗塞は、本件検査中に生じた脳塞栓症によるものと推認される。

そして、脳梗塞などの閉塞性の病変が生ずると、梗塞によって悪化した血行の流れをよくしようとして血圧が上昇することがあることから(<書証番号略>、阿部証人)、本件検査中の敏一の血圧の異常な上昇は、脳梗塞の発症によるものと推認される。

5 脳梗塞(脳塞栓症)が発生した時点

前記認定のとおり、本件検査中、敏一の血圧は、午後二時二一分に二三二/一一七まで上昇してからは、ニトログリセリンやアダラートを投与した際及び造影剤の副作用によって一時的に低下した間以外は、最高血圧が二二〇を超える状態が継続していたことから、最初の急激な血圧上昇が発生した午後二時二一分の時点で、脳梗塞が発症したものと推認される。

6 脳梗塞発症後の心臓カテーテル検査続行の影響

脳梗塞の発症後には、脳の浮腫が生ずる。特に、脳塞栓症の場合には、脳の浮腫を併発しやすいと言われている。この脳の浮腫を放置すると、脳圧が高まり、脳梗塞を起こした部分以外の脳の重要な部分が圧迫され、重篤な神経症状を呈し、患者の状態を悪化させる危険性がある。(内山証人)

本件検査においては、七六%のウログラフィンという造影剤が二〇〇ミリリットル使用されている(<書証番号略>)。脳塞栓症が発症した状況下において、冠状動脈造影検査及び左心室造影検査を続行し、七六%ウログラフィンという浸透圧の高い造影剤を血管内及び心腔内に注入したことは、脳の浮腫を助長する結果となった(<書証番号略>、阿部証人)。

本件検査が、左冠状動脈造影、左心室造影、右冠状動脈造影という順に進められていく過程で、左冠状動脈造影後、敏一の意識が「ボーとした」状態となり(<書証番号略>)、左心室造影後に最高血圧が二五〇以上に上昇した段階では、敏一の意識が呼びかけには答えるものの眠っているような状態となり(被告田原本人)、右冠状動脈造影後は、「声かけするもウトウトしていて返事をするのがやっとの様です」という状態となったことは(<書証番号略>)、造影検査の進行に伴い脳の浮腫が助長されたことによる意識状態の悪化を示すものと理解することもできる。

7 本件検査を中止すべきであったか

(1)  心臓カテーテル検査に伴って起こる可能性のある合併症の一つとして、発生率は非常に低いとされてはいるが、脳血管障害(脳卒中、脳血栓症、脳塞栓症など)が挙げられている(<書証番号略>)。そして、一般に、急性期の脳梗塞、発症直後の重篤な脳卒中の患者には、冠状動脈造影を行うことは危険であると考えられているのであるから(<書証番号略>)、心臓カテーテル検査を実施する医師は、検査中に、患者に何らかの脳血管障害発生の兆候が生じた場合には、たとえ障害が何であるかを具体的に特定することができなくとも、検査を中止すべき注意義務を負うと解するのが相当である。

(2)  心臓カテーテル検査中に、血圧が異常に上昇することは非常に稀であり、検査によるストレスによる血圧上昇の域を超えて非常に高い血圧になる場合には、主に脳出血の危険が予想される(<書証番号略>、阿部証人、被告横山本人、被告田原本人)。

(3)  被告田原は、まず、午後二時二一分に敏一の血圧が精神安定剤が投与されているにもかかわらず二三二/一一七に上昇した段階で、敏一の平時の血圧と比べ、検査によるストレスによる血圧上昇だけでは説明できない急激な血圧の上昇であることに気づき、脳出血を主とする脳血管障害発生の可能性を考え、本件検査を中止すべきであったというべきである。

たとえ、右段階では、ニトログリセリンの舌下によって敏一の血圧が一八一/一一一まで低下し、また、敏一には意識障害の兆候が存在しなかったことから、脳血管障害発生の可能性を看過してしまったとしても、被告田原は、遅くとも左心室造影検査終了後に再び最高血圧が二三〇以上に上昇した段階では、脳出血を主とする脳血管障害発生の可能性を考え、本件検査を中止すべきであったというべきである。この時点では、ニトログリセリン一錠を舌下させているにもかかわらず再度血圧が急上昇し、最高血圧が二三〇を超えた状態が十数分続いていること、降圧剤アダラートを舌下させたにもかかわらず最高血圧が二二〇までしか下がらなかったことから、検査によるストレスだけでは説明することができない血圧の異常な上昇が生じていることが明らかであり、さらに、敏一の意識が呼びかけには答えているが少し眠っているような状態であり、左冠状動脈造影後に敏一の意識が「ボーとしている」状態であったことと併せ考えると、意識障害が生じている兆候が認められるから、被告田原には、敏一に何らかの脳血管障害が発生していることが十分推測できる状態にあったからである。

したがって、被告田原が、敏一の最高血圧が二五〇を超えて上昇したにもかかわらず、本件検査を中止せず、右冠状動脈造影検査を行ったことには過失が認められる。

五争点4について

(1)  <書証番号略>、被告田原本人及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

被告田原は、敏一がもともと高血圧症患者であることから、本件検査中に最高血圧が二〇〇を超えても、検査によるストレスによって血圧が上昇する可能性があり、ニトログリセリンや降圧剤によって血圧が低下する反応を示していることから、何ら異常な事態ではないと考え、本件検査を予定どおり最後まで続行した。

そして、本件検査終了後、敏一が「声かけするもウトウトしていて返事をするのがやっとの様です」という傾眠状態にあったことについても、本件検査前に精神安定剤を投与していること及び検査の緊張からの解放によるものと解釈し、この時点では敏一に脳血管障害が発症した可能性に気がつかなかった。

その後、本件検査終了から三時間半経過した午後七時になっても、敏一の傾眠状態が継続しているのは、検査前に投与した精神安定剤の影響によるものとは考えられないことから、この時点に至って初めて何らかの脳血管障害の可能性に気づき、脳の浮腫を改善すべくグリセオールの投与を開始し、午後九時からは副腎皮質ホルモン剤ソルメドロールの投与を開始した。

(2)  本件検査終了から約二四時間経過後に敏一を往診した神経内科医は、敏一には脳塞栓症が最も疑われると診断し、脳塞栓症発症後に生じた脳の浮腫を改善するために、グリセオールと副腎皮質ホルモン剤リンデロンの投与を指示している(<書証番号略>、内山証人)。

したがって、被告田原は、脳血管障害の専門医である神経内科医の診療が開始される前に、神経内科医の指示と同じ内容の診療を既に開始していたことが認められ、鈴木紳医師作成の鑑定書(<書証番号略>)においては、この点を理由に本件検査終了後の被告病院の治療に問題はないとする鑑定意見が述べられている。

しかし、被告田原は、遅くとも左心室造影後に敏一の血圧が再び急激に上昇した時点で、何らかの脳血管障害の発症の可能性に気がつき、本件検査を中止すべき注意義務があったことを前提とすると、被告田原には、検査終了後は、直ちに、専門の神経内科医に相談するなどして合併症の治療を開始すべき注意義務があったといえる。しかるに、右認定事実によれば、被告田原は、本件検査終了後三時間半を経過した時点まで脳血管障害の可能性に気づかず、その間、脳血管障害の発症を前提とした治療を行っておらず、右注意義務を怠り、適切な治療の開始が遅れた過失が認められる。

六争点5について

1  敏一の直接の死因

前記認定の敏一の本件検査後の診療経過及び解剖の結果を併せ考えると、敏一は、急性胃粘膜病変(急性胃潰瘍)を原因とする胃からの大量出血を契機として、肝機能の低下、腎機能の低下、慢性膵炎の急性増悪、肺の鬱血が生じ、多臓器不全、DICに陥り、最終的には心不全により死亡するに至ったものと認めらられる。

敏一の遺体を解剖した結果、直接の死因となるほどの大きな脳梗塞の存在は認められなかった。

2 胃からの大量出血の原因

被告らは、ICU収容中に敏一の意識がいったん回復し、脳梗塞が直接の死因とはなっていないことから、敏一の死因は、脳梗塞が軽快した後の胃からの大量出血を契機とする多臓器不全、DICで死亡したものであり、脳梗塞とは関係がないと主張する。

しかし、問題は、敏一の死亡の契機となった胃からの大量出血の原因が何かである。

被告らは、敏一の死亡の契機となった胃からの大量出血の原因は、長期間ICUに収容されていたこと、それに関するストレス、副腎皮質ホルモンの投与が重なったことによる胃潰瘍からの出血であると主張し、鈴木紳医師作成の鑑定書(<書証番号略>)には、被告らの右主張に沿う鑑定意見が述べられている。

たしかに、ICUに収容されている患者に消化管出血が生ずる頻度は高いとされているが、ICUで胃出血を起こしたことが契機となって死亡する症例は稀である(被告横山本人)。しかも、本件では、ICU収容中は、敏一の病状は徐々に回復に向かい、抗潰瘍剤タガメットが投与され、消化管出血の予防策が施されていたのであるから、ICUに収容されていたこと及びそれによるストレスだけでは、死亡の契機となるほどの胃からの大量出血の原因を説明することはできない。

胃からの大量出血を起こした急性胃潰瘍がストレス潰瘍だとすれば、本件検査中のストレス、すなわち、脳塞栓症を発症し、最高血圧が二五〇以上に上昇し意識障害が生じたにもかかわらず、降圧剤アダラートを投与して、右冠状動脈造影を行い、脳浮腫を助長させたこと、本件検査後も直ちには脳浮腫が改善されず、脳圧が高まり、病状が悪化したことによるストレスの影響は非常に大きなものであったと推認される。被告横山も、敏一の死亡後、遺族に対し、胃からの出血の原因は、検査におけるストレス潰瘍であると説明している(<書証番号略>)。

また、意識障害を伴うような脳血管障害患者は、中枢神経の病変によって胃にストレスが加わり、それによって潰瘍が生ずるとされている(内山証人)。

以上によれば、本件検査中に敏一に脳梗塞が発症したにもかかわらず、検査が続行されたことによって脳の浮腫が助長され、敏一の意識障害が悪化したこと、検査終了後も脳の浮腫の改善が遅れたことが、胃からの大量出血を惹起した大きな原因の一つとなっていることが推認され、右推認を覆すに足りる証拠はない。

3 したがって、前記認定の被告田原の検査続行の過失及び検査終了後の適切な治療が遅れた過失と敏一の死亡との間には、因果関係が認められる。

七争点6について―被告らの責任

1  債務不履行責任について

(1) <書証番号略>及び弁論の全趣旨によれば、本件検査の実施を目的とする準委任契約は、被告大学と敏一の間で締結されたものと認められ、被告横山、被告田原及び被告喜多川孝一は、被告大学の履行補助者であるにすぎず、契約当事者とは認められない。

したがって、原告の被告横山、被告田原及び被告喜多川孝一に対する債務不履行に基づく損害賠償請求は、理由がない。

(2) <書証番号略>によれば、満枝は、敏一の被告大学に対する履行補助者(被告田原)の過失による債務不履行に基づく損害賠償請求権を相続したことが認められ、満枝の死亡により、満枝の唯一の相続人である原告が右損害賠償請求権を相続したことになる。

2  不法行為責任について

(1) 前記認定のとおり、被告横山には、原告主張の過失がいずれも認められないから、同被告に対する原告の請求は理由がない。

(2) 原告は、被告喜多川孝一が被告大学に代わって事業を監督する者に当たると主張するが、民法七一五条二項にいう「使用者に代わりて事業を監督する者」とは、客観的に見て、使用者に代わり現実に具体的に事業を監督する地位にある者を指すものと解すべきであるところ、被告喜多川孝一が、被告田原が所属する胸部外科における診療を具体的に監督する関係にあったと認めるに足りる証拠はない。

したがって、原告の被告喜多川孝一に対する請求は、理由がない。

(3) 前記認定のとおり、被告田原には過失が認められるから、同被告は、民法七〇九条に基づく不法行為責任を負い、被告大学は、被告田原の使用者として民法七一五条に基づく不法行為責任を負う。

(4) <書証番号略>によれば、満枝は、敏一の不法行為に基づく損害賠償請求権を相続したことが認められ、満枝の死亡により、満枝の唯一の相続人である原告が、敏一の不法行為に基づく損害賠償請求権及び満枝固有の不法行為に基づく損害賠償請求権を相続したことになる。

3  原告の損害

原告ら主張の損害のうち、次に認定する損害は、履行補助者である被告田原の過失に基づく被告大学の債務不履行又は被告田原の不法行為と相当因果関係を有する損害と認められる。

(1) 敏一の逸失利益

敏一が大正一四年四月二三日生まれで、死亡当時六一歳であったことは、前記認定のとおりであり、本件医療過誤がなければ、同人は、当裁判所に顕著な昭和六一年度簡易生命表の平均余命18.91年を生き、九年間は就労することができたものと推認される。そして、<書証番号略>によれば、敏一は、死亡当時、有限会社三和商会から役員報酬として一箇月当たり金四〇万円、年間金四八〇万円の給与所得を得ていたことが認められ、その生活費として収入の三〇%を控除し、同人の死亡による逸失利益の死亡時における現価を、新ホフマン方式により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると、次のとおり、金二四四五万四七五二円となる。

480万円+(1−0.3)×

7.2782=2445万4752円

(2) 敏一の慰謝料

主に診断のための検査施行上の過失によって患者が死亡したという本件医療過誤の態様、被告田原の過失の程度、敏一の年齢、家族構成、その他本件口頭弁論に現れた一切の諸事情を考慮すると、本件医療過誤により敏一が被った慰謝料としては、金一〇〇〇万円が相当である。

(3) 満枝の財産的損害

① 治療費

<書証番号略>によれば、満枝が敏一の被告病院への昭和六一年九月一七日から同年一〇月八日までの入院について支払った治療費(特定療養費)は、合計一三八万四二九〇円と認められる。

本件検査で用いられた方法による心臓カテーテル検査の場合、通常、検査後数時間で離床できるといわれていることから(阿部証人、被告田原本人)、本件検査が適切に行われれば、敏一は、遅くとも検査の翌日には退院できたと推認される。したがって、検査の翌日である昭和六一年九月一九日以降の入院にかかった治療費は、本件医療過誤がなければ支出する必要がなかったものであり、満枝の積極的損害であると認められる。

証拠からは、満枝が支払った右治療費のうち、本件検査後の昭和六一年九月一九日以降の入院にかかった費用は特定することができないが、弁論の全趣旨から、金一三〇万円と認めるのが相当である。

② 入院期間中における雑費交通費等

弁論の全趣旨及び経験則によると、満枝は、昭和六一年九月一九日以降の敏一の入院期間中における雑費交通費等として、少なくとも金二万四〇〇〇円の出費を余儀なくされたと推認される。

③ 葬儀費用、仏壇購入費、墓地・壇徒料

原告は、満枝が支払った葬儀費用、仏壇購入費、墓地・壇徒料合計金九四六万九五〇〇円は、被告大学の債務不履行又は被告田原の不法行為による損害である旨主張するが、弁論の全趣旨及び経験則によると、原告が本件医療過誤による損害として賠償を求めうる葬儀費用等の金額は、総額金一五〇万円とするのが相当であると認められる。

(4) 満枝及び原告の慰謝料

本件医療過誤の態様、被告田原の過失の程度、家族構成、その他本件口頭弁論に現れた一切の諸事情を考慮すると、本件医療過誤による慰謝料としては、満枝については金五〇〇万円、原告については金三〇〇万円とするのが相当である。

八結論

以上によれば、原告は、被告大学に対し、債務不履行及び不法行為による損害賠償請求権に基づき、また、被告田原に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、それぞれ金四五二七万八七五二円の損害賠償及びこれに対する敏一の死亡という損害が発生した日の翌日である昭和六一年一〇月九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の請求権を有することになる。

(裁判長裁判官近藤崇晴 裁判官伊勢素子 裁判官野山宏は、転補のため、署名押印することができない。裁判長裁判官近藤崇晴)

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